第42話

夕暮れ六時過ぎ

街が幾分か涼しくなり、どこか懐かしく思う橙色が桜ヶ丘の空をそっと染め上げている
昼間の夏の名残を残したまま、生き返るような青々とした匂いが漂う時間

雲が焦げたように黒くなって、徐々に街が木陰のように暗く薄まっていく

私は今、学校の真逆の駅向こう、聖蹟桜ヶ丘男子高校の正門の前にいた

ずっと一年間、逃げてきた場所だった

「まだ…かな」
深まる西の空を見上げながら、私はぼんやりと呟いた

ブカブカと羽織ったカーディガンは蒸し暑く、汗を滲ませた

指先だけをちょこんと出し、毎日着続けたその紺色カーディガンは、年期の中で右手の生地のほうだけが薄くなり、小さな穴が開きかけていた

花火大会当日、私はいつもと変わらず制服に身を包んでいた
カルマから身を守るには、どうしてもこの鎧が必要だったから

そして彼が今日、最後の聖蹟桜ヶ丘になるからと、部活の先輩や友人や先生と会ってから花火の待ち合わせという理由もあったから

正門の端に、服が汚れない程度に背をつけ、私はじっと待った

しかし、とてつもなく男子校の前で待つというのは落ち着かなかった
敵地か地雷元のようにさえ思えてしまい、単純に…怖かった

ローファーでレンガ道を踏んだり摩ったりして時間を潰して
瞳にかかった前髪と、度の入っていない黒ぶち眼鏡のフィルター越しに、辺りを伺っていた

門を出た部活終わりと思われる数人の男子グループに、見定めるような視線を受けながらも
身をすくませながらも、私は…彼を待ち続けた


***
それから少し時間が経ち、新鮮な風がストレートの髪を吹き抜けたとき、彼は現れた

「ひより 待たせてごめん 」
後ろから一人、ぎこちなさそうな男子の声がした

シャープですらっとした細身
灰色のスラックスをサラリーマンとは別物のようにスリムに着こなし、学校指定のネクタイを夕涼みの風に流し
大きくTOMMYとロゴの入った青と緑の配色のボストンバックを肩から斜めがけに、腰あたりにぶら下げていた

拓未は、そこに立っていた

幻じゃなく本物の、伸びたサラサラの髪も制服も…色んな部分は変わってしまっていても
あのままの拓未が、そこにはいた

「…久しぶり」
罪悪感にも似たものを混ぜて、彼は私に言った

「…久しぶり」
背の高い彼を見上げて、けれども視線はごまかして、私も言った

あらためて聞けた一年ぶりの声に胸を痛めて、…安心もした

「部活、もう大丈夫なんでしょうか 」
大きく膨らんだボストンバックを見て言う

「陸上部の仲良かった人とも、担任とも最後に話せたし、アドレスも交換したし、もう…大丈夫、この高校も街も好きだったから、もうこの制服も今日でホントに最後だと思うと寂しいけど 」

(アドレス…)
私のアドレス帳に、もう彼の名前はない

「…なにより」
付け足すように、私を見て何かを言いかけた拓未は、視線を落として声をしぼめた

「そう、ですか」
辛くなるから、その続きは考えないようにした

そして、連れ添うように、一年ぶりに私達は駅前へと歩き出した


***
日暮れの河川敷

川沿いの遊歩道を制服姿の二人は歩く

私はどこか怯えるように、彼はどこか頼りなく進んだ
彼との最後の夜は、着々と別れに近づいているように思えた

気がつけば、いつの日か好きと素直に言えた幸せは、どこか遠くの空へ流れてしまった
一年という長い長い孤独な年月を経て、今の二人の間には確かな溝が出来てしまっていた

会話もなく、歩幅の大きな彼の背の半歩後ろを歩く
夕日を受けた彼の背中はひどく悲しそうで

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