まだか、と誰かのことを誰かに問いた声は、途端に秒速三百四十四メートルの風にかき消される。
最早、自分の考えなど彼にはどうでもよかった。
蠢く風と真っ暗な景色は認識される。自分の全てが一体になった感覚に陥る。
足を伝う振動は、何処か心地よいように感じられた。
彼は無い首を動かす。
バイクがあるかと思ったが、そこには暗やみを足を蹴って走る誰かがいた。
彼が笑った気がした。
その笑みの真意は分からない。
視線を正面に戻す過程、秒速三百四十四メートルの世界で、彼はふと想起する。
前には水平線が広がっていた。
さざ波が響かせる音が、二人の沈黙を支配している。
ベンチに寄り添って座る二人の顔は、綺麗な黄昏色に染まっていた。
「ねえ、夕陽ってなんで赤いか知ってる?」
何処か嬉しそうな恋人の問いに彼は得意げに答える。
それは空気が汚れているからだよ、と。
すると、馬鹿みたいと言うように彼は彼女に笑われていた。
「ロマンて大切なの。男の人だから分かるでしょ?」
分からないと言うように彼は首を横に振る仕草をした。瞳に焼き付こうとする赤い光が眩しい。
「それでも、ねぇ。聞いてる?」
答えるよりも前に、彼は彼女に顔を向ける。
その時に、返す言葉を考える間もなく、唇に伝う感触。
時を永遠と感じた。
刹那的な想起の間でも。
言葉はもういらなかった。
切なさにも、喜びにも紛える感情が伝える想いが、彼の頭をパンクさせようとしていたのだから。
確かに言葉は覚えていない。
だが、それに内在した何かを彼は想起する。
「走り続けて」と。
「例え離ればなれになっても」
「あなたの好きなように」
「私のいるところへ」
何処へ?
彼の中で答えは出ていた。
想起は音速を超える。
彼はしっかりと暗やみに向かい合う。眼を逸らさず。
そして、走り続ける。
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