主は私を腰に差し、小舟に乗って陸に向かう。
私が閉じ込められた小島から舟は次第に遠ざかって行き、ついに湖の岸に着いた。
何百年経ってもほとんど変わらない木々や小路を眺める。
――ああ、帰って来たんだなあ。何もかも懐かしい。
いつも「来る」時には箱の中だから、「行く」時しか見れないので、四回目でも十分に久しぶりだ。
暫くすると、主の仲間らしき男二人が、私の姿を覗きに近寄って来る。
いや……仲間では無かった。
私の最初の仕事は、彼等を殺すことだったからだ。
主は先手を打ち、先ず一人の片腕を斬る。
私の刃が皮膚を裂き、筋肉に達する。
生暖かい肉に包まれた感触。
そして、私は「自分」の証を使う。
貴方達の良心、後悔させてあげるんだから。
この人間の善の心は……半分くらいか。
中途半端ね。悪に徹する覚悟も無しに悪事を働くか。
ではその分、貴方の体液、貰うとしよう。
斬られた男の腕からは血も流れず、肩までは渇き皺だらけになっている。
「――――!」
声とは呼べない悲鳴が上がったが、主は気にせず、心臓を穿(うが)つ。
人間だったものは身体中の血を吸われ、ぱたりと動くのを止めた。
もう一人は、先程まで自分と行動を共にしてきた者の変わり果てた姿に恐怖し、後退りし始める。
だが、遅い。
既に主は、私を男の胸の深くまで突き刺していた。
……これで、終わり。
朽ち果てた死体がまた一つ、主の隣へ倒れ込んだ。
さて、彼等の命を吸い、力も満ちてきたところで、主について考えてみる。
いきなり仲間らしき二人を切り殺すなんて、正気の沙汰じゃない。
まあ、今までの主にまともな人間はいなかったのだが。
(彼は、ただの狂人か)
何となく主に問いかけるように思ってみる。
……聞こえるはずもないのだが。
しかし――
そんな事、あるはずもないのに。
(狂ってはいないと思うぞ)
主の「声」が私の心に響いていた。
……まったく、世の中はわからない事だらけだ。
刀と人間の会話なんて、少なくとも私は聞いた事はない。
(そう。ところで、主の名前は?)
おそるおそる問い返す。
(俺の名前?)
再び響く声。
(クロノ・レクシトだ)
了解。
(それなら、クロノと呼ばせて貰うわ。よろしく、クロノ)
ひとまず、これでいい。
何故話が出来るか、なんて後で聞けばいいだろう。
ここで一旦終わりにするところだったが、
(ところでお前は、何て名前だ?)
この問いが、それを許さなかった。
(……名前は無い)
それは紛れもない真実。
誰もが、私の事を最強の武器として求めており、名前など無かった。
何故か、悲しい。
(それなら、俺が名前を付けようか?)
主、いやクロノの考えが聞こえる。
(……そんな)
別に、必要無いのに。
だけど彼は、私の言葉に込められた否定の念を感じた様子も無く、
(桜の中に封じられていたから、「桜」なんてどうだ?)
勝手に私を名付けた。
桜。
その響きに、若干の違和感を抱く。
(普通の「桜」とは、発音が違うんじゃない?)
そんな、疑問は、
(お前は唯一の魂を持った刀だ。そこらの木と一緒にしたら、可哀想だろう)
氷解して、
……私の心が、揺れ動いてゆく。
まるで、この私の刃文のように。
(……ありがとう)
……本当は、言葉にならないくらい嬉しいけど。
恥ずかしいから、小声で礼を言うことにする。
(……すまん、少し考え事をしてて、聞いてなかった。何て言ったんだ?)
……馬鹿。
(この、朴念仁――!)
我が主、クロノ。
彼と私は、どんな悪行を二人で行なうのだろうか。
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