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「理姫」 第3話 「近くて遠い、距離」(リトルバスターズ)
作者:m

紹介メッセージ:
 近くて遠い。 遠くて近い。 それが兄妹の、距離。 兄妹の絆を紡ぐストーリー







「――みなさん」

「心配をおかけしてしまって、本当にごめんなさい」



 病院の個室。

 ベッドに上体を起こしている理姫がペコリと頭を下げた。

 リボンをほどき髪を下ろしているので、いつもとイメージが全然違う。



「うああぁぁぁん、ホントになんともなくてよかったよ~っ」

「うぐっ、えぐっ、ぐすっ…一時は…ぐずっ…どうなることかと思ひまひた……ぐすっ…」

「心配してくれて、ありがとう」

 ベッドの理姫に抱きついている小毬さんとクド。理姫そんな二人をなでている。



――今日は理姫が倒れた日の翌日だ。

 理姫が倒れた後は救急車に入院の手続きにと大忙しだった。

 けど……。

 けど……。

 大事に至らなくて、本当に良かった……。



「元気そうじゃないか。よかったな」

 僕の頭をくしゃくしゃとする笑顔の恭介。

「…うん」

 ベッドサイドに足を進める。

「理樹くん…」

「理姫、もう体はいいの?」

「うん」



 よかった……。

 いつもの優しい笑顔が返ってきた。

 理姫の今の顔を見ると、昨日のことがまるでウソのようだ。



「昨日は…ごめんね。理樹くんにすごい心配かけちゃったよね」

「大丈夫だよ」

 理姫の恥かしそうな笑顔に僕もホッとした笑顔を返す。

「やー、けど昨日の理樹くんの慌てようったら…プフフフ聞いて聞いて理姫ちゃんプフフフフ」

「うわーうわーうわーっ! やめてよ葉留佳さんっ」

「聞きたいな」

「理姫まで聞こうとしないでよっ」

 慌てて葉留佳さんの口を押さえようとしたとき。

 ガシッ。

「ふむ。確保だ」

「く、来ヶ谷さん~っ」

 両肩を押さえられたっ!

「葉留佳君、昨日の理樹君が一斉送信したメールを理姫女史に見せてやれ」

「ガッテン姉御っ」

「じゃーん、これを見るのだっ」

 携帯の電源をいれ、画面を突き出す葉留佳さん。

「うわーうわーうわー見ちゃダメだからっっ!」



 『理姫が病いんったから一緒についてて今病いんいから』



「ふふっ、理樹くん慌てすぎ」

「あ、いやその……あのときはほら、頭が混乱してて」

「あたしたちがびょーいんに着いた後もすごかったぞ」

「ちょ、ちょっと鈴までっ」

「……理姫さんの検査の間中の『理姫は大丈夫だよね…?』『ああ、大丈夫さ』という恭介さんとのやり取りは見物でした」

「……10回までは数えていましたが、それ以上はさすがに数えるのをやめたくらいです」

「い、いやいや……」

 普段は無口な西園さんまで饒舌(じょうぜつ)に語り始めたし…。

 事実、理姫の検査の間は落ち着かなくて、その会話しかできなかった。

「……恭介さんに肩を抱かれ『大丈夫だよね……』『ああ……』と頬を染め語り合う二人の麗しい姿は、それはもう今でもはっきりと目に焼きついています」

「いやいやっ、その事実はないからっ!! 明らかに西園さんの妄想フィルタがかかってるからっっ!!!」

「お、ようやく理樹のキレのあるツッコミも復活しやがったな」

「真人まで茶化さないでよっ」



「ふふふっ、クスクスっ」

 僕たちのやり取りがツボに入ったのか、理姫が口に手を当てて肩を揺らしている。

「り、理姫っ、わ、笑わないでよーっ」

「だって……クスクスッ」

「う、うー…」

 顔から火が出そうだーっ!

「けど……理樹くん」

 理姫が気恥ずかしそうな、嬉しそうな、そんな顔を僕に向けた。

「う、うん?」

「……ありがとう」

「……」

「うん」





 昨日のことでわかったことがある。





 突然できた、僕の妹。

――戸惑い。

 それが僕の内面を表現するのに適した言葉だった。

 理姫が僕の妹……そんな実感なんてなかった。

 戸惑いの中での理姫は……曖昧な存在。

 だから、僕はどう接していいかわからなかった。

 けど、日々を重ねていくにつれて――



――いつのまにか、妹は確かな存在として僕の中に、いる。





「にしてもよ」

 腕組みをした真人が口を開いた。

「盲腸ってのはそんなすぐに治るもんなのか?」

「……井ノ原さん、デリカシーという言葉を知ってますか?」

「ピザ関係だろ。それくらいオレでも知ってるって」

 ダメそうだった。

「本当に、おなかはもうだいじょーぶなのか?」

 鈴はまだ心配そうだ。

「うん」

「今はいい薬があるらしくて、その薬で散らしたからもう大丈夫ってお医者さんが言ってたよ」

「つまり手術はしなくてもいいのか?」

 花瓶に花をいけていた謙吾が手を休め、理姫を見る。

「ううん」

 困ったような笑みが浮かぶ。

「問題はないけど、まだ盲腸に少し腫れも残ってるし、再発する恐れがあるから手術はしておいたほうがいいみたい」

「私の体力が戻ってから、だって」

「それにね」

「何年か前からたまにお腹が痛くなることがあったんだけど、その時は我慢できる痛さだったから……我慢してた」

「いやいやいや…そこは我慢するところじゃないでしょ」

「だって……ほら」

 理姫の顔が桜色に染まる。

「一人で病院なんて、その……怖いし……」

 怖いから我慢するなんて…ある意味すごい精神力だ。

「……萌えだな」

「……萌えですね」

 そして、どうして来ヶ谷さんと西園さんは頬を染めているんだ…。

「けど、今はみんなも…理樹くんもいてくれるから、きちんと治しちゃおうと思って」

 照れくさそうに、胸の前で指を組んでいる。

「手術、かあ…」

 ちょっと不安だ、やっぱり。

「安心しろ、理樹君」

 僕の心配を察してか、来ヶ谷さんの手が僕の肩を優しく叩く。

「手術といっても、キミが心配するほど大げさなものではない」

「盲腸の手術は日常茶飯事行なわれている至極簡単な手術だ」

「それに今はほんの数年前とは比べられないほど医療技術も進歩しているからな」

「来ヶ谷さん…」

「だから――」

 フッと笑みが浮かぶ。

「キミが心配するほど、理姫女史の白く絹のように美しい柔肌に傷はほとんど残らんだろうよ」

「いーやいやいやいやいやっ!!」

 なんでこの人の目線はいつもそういう方面なんだっ!







「――理姫の元気な顔も見れたし、そろそろ引き上げるか」

「もう?」

 恭介の言葉に、理姫の顔に少し陰りが差す。

「ああ、おまえも病み上がりだからな。こんなに大勢で騒いだんじゃ体に障る」

「昨日の今日だしね」

「そう、だよね」

 どこか寂しげな理姫を背に、みんなが気遣いの言葉を残して病室を出てゆく。

 最後に僕もドアへ。

「……」

 背中に視線を感じる。



「――理姫」

 振り返る。

 寂しげだった理姫の顔が一瞬覗いたが、すぐに明るさを取り戻していた。

「明日も来るからね」

「…待ってる」

 ホッとした微笑み。



「また明日、理姫」

「また明日、お兄ちゃん」



 小さく手を振る理姫に軽く手を上げて病室を出た。

 最後の「お兄ちゃん」は、廊下にいるみんなに聞えないように小声だった。









 次の日の放課後、僕は真っ直ぐに病院へと向かった。

 みんなは「大勢で行くと理姫ちゃんの体に障るから」と言って来なかったけど、たぶん僕たち二人の場を作りたかったんだと思う。



 理姫の病室の近くまで来たとき。

 『じゃあ、明後日で』

 『はい』

 中から会話が聞えた後、病室から先生が出てきた。

 ペコリ、とお辞儀を返す。



――コン、コン



 『はい』

 病室のドアをノックをすると、中から理姫の声。

 嬉しさが声色に混じっているところからすると、きっとお見舞いが来たとわかっているのだろう。



「――入るよ」

 理姫はベッドに上体を起こし、本を片手に持っていた。

「あ、理樹く――お兄ちゃん」

 ほころぶ理姫の顔。

 後から誰も入って来ないのを見て、すぐに呼び方を戻す。

「う…」

 ついついたじろいでしまった…。

 やっぱり、まだどうにも照れくさい…。

「だって、今は二人しかいないよ?」

「はあ…」

「本当に理樹くんは恥かしがり屋さんだね」

「放っておいて」

 ふふっ、と笑顔を溢す理姫にいつもの返事。

 けど…。

「まあ、病院でなら…いいかな」

「本当?」

 少し驚いた顔からすぐに愛らしい笑顔が溢れる。

「お兄ちゃん」

「なに?」

「本当だ、言っても大丈夫みたいだね」

「わざわざ僕を試さないでよ…」

「ふふっ、ごめんね」

 やっぱりみんなと一緒にいる時と僕と二人の時では、雰囲気が微妙に違う。

 僕の反応が…気を使わせちゃってるのかな。



「はい、これ。授業のノートとプリント」

「ありがと」

「それとさ」

 つぶれないように気をつけて持ってきたものを鞄から取り出す。

「これ、僕たちみんなから」

「あ……」

 まるで昔から探していたものが見つかったような、嬉しさを称えた理姫の笑顔。

「ツルだね」

「うん、10羽しかいないから10羽ツルかな」

 ツルはリトルバスターズのみんなが1羽ずつ織ったものだ。

 それぞれの羽に、みんなからのメッセージが書いてある。



 『はやく退院して、みんなでおかしたべようねp(*^-^*)q』

「ふふっ小毬さんったら」



 『一病息災と言いますし、これからは無病息災に違いありません』

「これは能美さんだね」



 『はやく帰ってこい』

「まっすぐで、鈴さんらしいね」



 『ゆっくりとお体をお休めください』

「はい、西園さん」

 わざわざここにいない西園さんに返事をしている。



 『キミの温もりが愛おしい』

「来ヶ谷さんって意外と寂しがり屋さんなんだね、ふふふっ」

「いや…たぶんそういう意味じゃないと思うよ…」



 『元気ハツラツリポビタンDー!』

「ふふふっ、葉留佳さん、ドリンクが混じっちゃってるよ」

 律儀に葉留佳さんにツッコミを入れてるし。



 『心・頭・滅・却』

「力強くて、謙吾くんの気持ちが伝わってくるね」



 次に手を掛けて、理姫が首を捻る。

「お兄ちゃん、この丸いのは…なに?」

「……真人、折り紙をしてたら『こんなんできるかーっ!』ってなっちゃって」

「タイトル『ダンゴ』だって…あ、けど律儀にメッセージは書いてたから見て上げてよ」

「ふふふっ、うん」

 『筋トレがおまえを待っている』

「うん、真人くんと一緒なら楽しく筋トレできそう」

「図に乗ると大変なことになるから断ってよ…」



 『みんな理姫の帰りを待ってるからな』

「恭介さん……はい」

 恭介のメッセージを読んで、嬉しそうに返事。

「じゃあ、最後は…」



 『退院したら、みんなと一緒にお花見にいこう』



 静かにツルを下ろし、くすぐったそうな笑顔を僕に向ける。

「楽しみにしてるね、お兄ちゃん」

「うん」





「――そうだ」

 理姫がいつものように胸の前でポンと手を合わせた。

「散歩したいな」

「散歩って、病院の周り?」

「暖かいし天気もいいから――どうかな?」

「どうかなって言われても……体は大丈夫なの?」

「もう大丈夫」

「手術はするけど、それは再発防止のためだし…今の私は健康だよ」

 うーん。

 顔色を見ても、いつも通りの元気そうだし…。

「ちょっとだけだよ」

「お兄ちゃん、ありがと」

「……」

「……」

「……」

「……」

 ……理姫が僕の顔を見たまま動かない。

「どうしたの、理姫?」

「私、女の子だよ」

「言われなくても知ってるけど」

「準備」

「?」

「お兄ちゃん、にぶい」

「??」

「準備があるから廊下に出ててほしいな」

「あ、そっか。ごめんごめん」

「ふふふっ、お兄ちゃんらしいけど」



 病室から出ようと扉に手を掛ける。

 振り返ると、理姫は嬉しそうに手荷物から鏡と買ったばかりのリボンを取り出していた。







――病院の周りは思いのほか開けていた。学校の中庭を広くしたような感じだ。

 アスファルトの小道が続き、周りには綺麗な芝が一面に広がっている。

 ピクニックまで出来てしまいそうだ。

 傍らにはベンチも備え付けてあり、幾人かの患者さんたちが楽しげに談笑している姿が見える。



 僕と理姫は春のうららかの日差しの下、そんなのどかな風景の中を歩いている。





「…ふふっ」

「いきなりどうしたの?」

「ううん、なんでもない」

 嬉しそうに小さく首を振る。

「うあ…なんかそういうのって余計に気になるよ」

「気になる?」

「うん」

「聞きたい?」

「聞きたい」

「……」

「……」

「ふふふっ」

 また口に手を当てて嬉しそうに笑いを溢す。

「このやりとりも、そうかな」

 理姫の幸せそうな顔が僕に向けられている。

「だから、どうしたのさ?」

「――お兄ちゃんと会ってからね」

「うん」

「小さい頃からの夢が次々に叶っていくんだよ」

「夢?」



 胸に手を当てた理姫。その優しい表情が幸せを彩る。



「例えばね」

「誰かと一緒に散歩するとか」

「誰かと一緒に食卓を囲んでご飯を食べるとか」

「誰かと一緒に買い物とか」

「誰かと一緒にアイスクリームとか」

「誰かがお見舞いに来てくれるとか」

「他にも色々あるんだよ。例えばね……――」



 指を折りながら話す理姫の、夢見心地のような横顔を見つめる。





 ……僕と同じ境遇だった理姫。

 違うのは……一人でいた日々の長さ。

 僕には手を差し伸べてくれた人がいて、理姫には……いなかった。

 僕はリトルバスターズのみんなが支えてくれたからこそ、なんとかやってこれた。

 理姫はそんな境遇を、今までたった一人で頑張ってきたんだ。

 人に言わせてしまえば、理姫が嬉しそうに話すことは幸せの内にも入らない些末なことかもしれない。



 けど、ずっと一人だった理姫にとっては

 それが待っていた幸せなんだ。





「それにね」

「ずっと夢見てきた一番大きな夢が叶ったんだ」

 わざわざ僕の前に出て、僕と向き合う。

「それはね――」

 手を後に組んで、はにかんだ顔。





「お兄ちゃんと一緒にいれること、だよ」

「それが私の、一番の幸せ」



「理姫……」

 その理姫の言葉がくすぐったくて。

 照れくさくて。

 …もっとたくさんの夢を叶えていこう。兄妹で一緒に。

 そう言おうとしたけど、口に出せなかった。

 どうしようもなく照れくさくて、『兄妹』という言葉を口に出せなかった。



「ふふふっ」

「ごめんね。いきなり変なこと言っちゃったね…」

 照れくさかったのか、頬を桜色に染めて僕の横に肩を並べた。

「私が欲張りすぎて、幸せを一度にたくさん味わっちゃったから…お腹こわしちゃったけど」

 恥かしそうに自分のお腹をさすっている。

「すぐに退院できるよ」

「うん」

 …気の利かない言葉しか、口に出せなかった。







――病院の周りを一周してから、僕たちは病室へと戻った。

「もうお終いなんて、残念」

「手術もあるんだからこれくらいにしておかないと」

 ベッドの上に座った理姫の脚に布団をかけてあげて、僕も横に腰を下ろした。

「手術の日程はまだ決まってないの?」

「あ…言うの忘れてたね」

「……そういう大事なことは先に言わないと」

「ごめんね、お兄ちゃんがお見舞いに来てくれたのが嬉しくて…すっかり忘れちゃってた」

 はぁ…。

 いつも人のことは気にかけてるのに、自分のこととなるとどうしてこうも無頓着かな…。

「あさって、だって」

「あさって……そんなにすぐなんだ」

「うん、けど早いほうが私はいいな」

 胸の前で手をポンと合わせて、微笑を浮かべている。

「早く終われば早く退院できるでしょ」

「初めてだから、緊張するけど」

 2日後にはもう手術か…。

「……考えたら、なんか僕まで緊張してきた」

「ふふふっ、なんでお兄ちゃんまで緊張するの」

「手術なんて受けたことがないから不安だし……それに体を切るなんて痛そうだよ、やっぱり」

ふふふっ、と笑みを溢す理姫。

「お兄ちゃんって心配性なんだね」

「それは…………まあ、心配だよ」

 妹だから、って言おうとしたのに……やっぱり照れくさくて口に出せなかった。

「お兄ちゃん」

「私は大丈夫だから、安心して。ね?」

「う、うん」

 僕の方が励まされてどうするんだ…。

「それとね」

「手術の日はお見舞いに来なくても大丈夫だよ」

「え、なんで?」

「だって手術の日は平日でしょ。学校、あるよ」

「けど…」

 学校は休んで、と言おうとしたら。

「ダメだよ」

 心を読まれていた。

「それにね」

「私、手術の前はきっと不安そうな顔してると思う」

「なら、やっぱりお見舞いに来たほうが…」

「ううん。だからだよ」

「?」

「そんな私の顔見たら、お兄ちゃんを余計に心配させちゃう」

「私は大丈夫」

「だから、お兄ちゃんもいつも通り学校でちゃんと授業を受けてきて、ね?」

「はぁ……」

 本当に人の心配ばっかりして…。

「…うん、わかった」





「――もう、こんな時間」

 日はすっかりと傾いていた。

「お兄ちゃん、そろそろ寮に戻らないと」

「そうだね」

 イスから立ち上がると。

「お兄ちゃん」

「うん?」

「今日もお見舞いに来てくれて、ありがと」

「明日もまた来るからね」

「待ってる」

 名残惜しそうな表情が浮かんでいる。

「また明日、理姫」

「また明日、お兄ちゃん」

 理姫の声を背に、病室を後にした。







 病院の廊下を歩いていると。

「あ…」

 理姫の担当の先生が給湯室に入っていくのが見えた。



 うーん。

 やっぱり手術前に挨拶くらいしておいたほうがいいのかな?

 お世話になるんだし…。

 うん。

 宜しくお願いします、くらい言っておいた方がいいよね。



「あのー」

 僕が声をかけて給湯室を覗こうとしたときだ。

 奥から先生がひそひそと会話している声が聞えてきた。



 『3階の髪が長い患者さんいるだろ』

 『アッペの?』

 『いや、個室の髪を結ってる患者さん、男の子が見舞いに来てる』

 『あーはいはい』



 あ、理姫の話をしてる。

 ……。

 辺りをキョロキョロと見回すけど、幸い周りには誰もいない。

 立ち聞きするのは悪いけど…どうしても気になる。

 気付かれないように、こっそりと聞き耳を立てた。



 『で、レントゲンか』

 『どう思う?』

 『随分とメタしたマーゲンクレプスだな』

 『ずっと一人ということもあってか、病院にはかからなかったそうだ』

 『どおりで。オペは?』

 『明後日。意見は?』

 『プログノーゼはシュレヒトだろうよ』

 『参考にならなかった。ありがとう』

 『どういたしまして』



「あはは……」

 盗み聞きしたはいいけど、さっぱりわからなかった。

 医学用語かな?

 たしかオペは手術、だったはず。TVで聞いたことがある。

 それ以外は何を言ってるのか全然わからない。

 手術の大事な話をしているようだし……挨拶はやめておいたほうが良さそうだ。

 ……。

「とりあえず…」

 忘れないうちにメモくらいはしておこう。

 鞄からいらないプリントを取り出すと、聞いたままの言葉を書き出した。

「これでよし、と」

 僕は給湯室を後にした。









――コン、コン

 夜、僕は恭介の部屋を訪れた。



「理樹か。どうしたんだ?」

「恭介の部屋ってさ、こっそりインターネット引いてるよね」

「……」

「いや、そんなギクッとするほど驚かなくても」

「……ご明察。さすが理樹だな」

「ちょっと貸してもらいたいんだけど」

「ネットをか?」

「うん」

「……」

「……」

 ポン、と肩に手を乗せられた。

「理樹も、やっぱり男だったんだな」

「?」

「そんな顔するなって。男がネットをやるなんて十中八九そんな理由さ」

 背中をポフポフと叩かれた。

「安心しろ、俺はおまえが使ってる間はどこかに行っている」

「?」

「存分に使ってくれ。色々と」

「?」

 ワケがわからないことを言い残して、恭介は去っていった。

 …いったい何だったんだろ?





「えーっと」

 パソコンの前に座って、僕は今日病院でメモしたプリントを広げた。

 今日、病院で聞いた言葉を調べようと思ったのだ。

「まずは、えっと……プログノーゼ、と」

 検索するとそれは一瞬で出てきた。



 プログノーゼ→予後。



「メタは?」



 メタ→転移。



「転移……?」



 手が止まる。



 転移……。



 ……息が詰まりそうな圧迫感。

 首筋を冷たい汗が伝う。

 まさか……ね。

 これ以上調べるなと頭が警笛を鳴らしている。



 震え始めた指を再び動かし始める。

「……マーゲンクレプス」

 心拍数が上がっているのがわかる。

 嫌な予感だ。

 とても嫌な予感……しかも当たるとわかっている嫌な予感だ。

 震える指先。

 首筋にナイフを当てられているような感覚。

 締め付けられるような圧迫感の中、マウスを恐る恐るクリックした。



 マーゲンクレプス→胃ガン。



 淡々とした無機質なゴシック体が白画面に浮かんでいた。

 まるで中学校の英単語の意味を示すように、ごく当たり前に。

 冷たい事実を、表示していた。



「……っ」

 言葉が出ない。

 視界がグラリと揺れる。

 体に圧し掛かっていた圧迫感が全て氷の塊に変貌した。

 背中に太いツララを突き立てられたかのような感覚。

 目の前の全ての彩りが、消えた。



 ……シュレヒト。

 壊れた機械のように指先が文字を並べる。



 シュレヒト→悪い。



 病院で聞いた言葉を書いたプリントに目を落とす。

 そこにはこう書かれている。



 『随分と“転移”した“胃ガン”だな』

 『ずっと一人ということもあってか、病院にはかからなかったそうだ』

 『どおりで。“手術”は?』

 『明後日。意見は?』

 『“予後”は“悪い”だろうよ』





「……」

「理姫が……ガン?」

「ウソだよ」



 今日も理姫は笑っていた。

 まるで、桜の花のように笑っていた。



「ウソだよ……」



――春の日差しの下、ようやく自分の夢が叶い始めたことを嬉しそうに話していた。



「ウソだよね……」



――ようやく僕と会えて、兄妹と一緒にいれて……それが幸せなんだ、なんて当たり前のことで喜んでいた。



「誰か、ウソだって言ってよ……」



「お願いだから、ウソだって……言ってよ……」









 時計が時を削る音だけが響いていた。