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自由の話、制限の話(コラム)
作者:m

紹介メッセージ:
 自由とは言うものの、字面通りではなく何らかの制限があるのは皆さん知ってのところ。そんな話を少し考えたいと思います

>自由の話、制限の話

さて、mは物事を深く考えることをあまりしないので(常に直球勝負w)今日はそれっぽい話を考えてみたいと思いますw
今日はmが考える自由のお話、その制限の話です。
堅苦しそうと身構えなくていいです、気楽にいきましょうw


自由自由とは言うものの、字面通りではなく何らかの制限があるのは皆さん知ってのところ。
例えば時間に制限されますよね。
学校なら授業時間です。
社会人ならお仕事の時間がそのまま束縛です。
(ちなみに時間をお金に換える人、つまり時間に金銭を制限される人=労働者、それ以外をお金に換える人=ビジネスオーナー、投資家なんて分かれます)
他にもお金の上限でも制限されますし、立場なんかにも制限されます。
おっと、中学3年生で習った公共の福祉による制限も忘れてはいけませんw


ただ、私は身近な部分での自由を制限している要素は『自分』なのではないかと考えます。
我々の眼前には様々なことができうる無数の選択肢が常に存在しています。
それらを選ぶ、というよりは全て破棄しているのは主に自分です。
「私は……だから」
このようなことは元より、
「私は今は~ということをしているからそれはできるはずがない」
このように選択の自由はあるはずなのに切り捨てていたりします。
しかもこれらは自分が認識している枠内で自動的に行われるため、選択肢を捨てたこと、選択肢が存在していることすら認識されません。
結果、自由が奪われてなくなっているように思えます。
けれど切り捨てた選択肢は思ったほど荒唐無稽ではない、むしろ手にとることができる自由だったりします。
(勿論極論を持ち出し「なら今からプロ野球選手になれるか?」という話はノーサンキューw)


例えば同じ会社でお友達で同い年で自分と同じく独身の、自分とほぼ同じ状況のAさんがいたとします。
その人が「来月の第二週の金曜から3泊4日でグアム行ってくる」と言ったとします。
はい、行けばいいですね(爆)
それをそのまま同じ状況の自分に当てはめてみましょう。
ちょっと考えますよねw
自分だと考えてしまうのは自分の置かれている状況が判断に含まれるから。
けど、行こうと思えば休暇をとってグアムに行けるわけです。


ここで「やろうと思えばできるかもしれないけど、ちょっと…」というブレーキが見えたかと思います。
Aさんが何をしようがそれは自由な行動なのです。
自分だってAさんと同じようなことができる自由があります。
それなのになぜブレーキがかかるのでしょうか。
それは、意識的にしろ無意識的にしろ『選択・行動には必ず責任が伴う』ことを知っているからです。
上の例ですと、今お金がいくらあったか、使っても大丈夫か、スケジュールはどうなっているか、有給大丈夫か、などです。
我々の眼前には様々なことができうる無数の選択肢が常に存在していて、それらの全てを選択できます。
ですがそれらの選択および行動には常に選択した自分が負う『責任』が存在します。
それらを忘れてはいけません。
例としてmがお仕事を辞めて日本に戻ることを挙げると、仕事を辞めることはできます。
それに対して私が負うべき責任は仕事の引継ぎの他、自分の将来、貯蓄などなどw
あとたまにある例としてはTwitter。
何を言うのももちろん自由です。けれどどういった発言にも責任があります。
何気ない一言で傷つく人もいます。故意にしろ過失にしろ発言した自分の責任です。


■mの考えまとめ!
1.自由は自分が制限している場合が多い。
2.自分が制限する理由は、選択・行動に責任が伴うことを知っているから。

上述1,2から、自由の制限は自己が負担する責任とトレードオフの関係にあると言えるでしょう。
自分が選択した行動の責任を取る自信があればあるほど、自由の制限については減ります(選択・行動の自由が増える)
自分が選択した行動の責任を取りたくないのであればあるほど、自由の制限は増えます(選択・行動の自由が減る)

これにてmの考える自由と制限の話は終わり!