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幕間
「すぐそこにあった夢」
こんな夢を見た。
どこか遠い、砂漠に囲まれた異国の風景。
昼間は灼熱という言葉通りの暑さなのに、日が落ちると冗談としか思えないほど冷え込む。
そんな荒れた荒野にあるキャンプに佇(たたず)む、小屋のような診療所で生活をしていた。
「――あや、いいかい?」
「なに、お父さん」
メインキャストはあやという名前のようだ。
裸電球の明かりにお父さんの真剣な表情が浮かぶ。
「日本からこの手紙が届いたんだ」
手渡されたエアメールに目を通す。
「お父さんの先生からの手紙?」
「そうだよ、お父さんの恩師の先生からだ」
「もう先生もいいお歳だ……そろそろ引退しようと思っているようだね」
「へぇ」
聞いていた話では、かなり腕の立つ先生だったそうだ。
歳をとってからは大病院の喧騒を離れたらしい。今は日本の小さな村で診療所を開いていると聞いた覚えがあった。
「先生は引退を考えているようだけど、先生が引退してしまうとそこは無医村になってしまうんだそうだ」
「この手紙にはね…」
微笑みながらずり落ちたメガネを直す。
「お父さんにその診療所を継いで欲しいと書いているんだ」
「……え、それってまさか……」
「日本に行こうか、あや」
小さい頃、お父さんの話を聞いてから憧れだったお父さんの母国である日本。
行ってみたいとずっと思っていたけど、お父さんに迷惑を掛けたくなくて一切そのことは口に出さなかった。
正義感に燃え、荒れ果てた土地の人々を救おうとしているお父さんの邪魔はしたくなかったのだ。
けれど、それが唐突な形で実現した。
お父さんの穏やかな笑顔が語っている。
この地を離れ日本に定住する気でいるようだ。
「……日本までのお金はどうするのよ?」
嬉しい反面、17歳にもなると現実的なことにも目が向けられる。
お父さんは特にそういった面に弱いから支えてあげなければならなかった。
「いやぁ」
困ったな、という風に頭を掻くお父さん。
「旅費もすでに先生から頂いてしまったんだ」
お父さんの様子に溜息をつきながらも、新天地へと思いを馳せていた。
季節は春。4月だった。
日本に着いて真っ先に驚いたのは人の多さだ。
加えて驚かされたのが、誰の目にも怯えや殺気がないこと。向こうでは誰もが周囲に注意を払っているのでこんな目なんて出来ない。
物珍しい光景に目を奪われながらバスを乗り継ぎ目的地へと向かう。バスといったら気を抜けば舌をかむほど揺れるものだという向こうでの常識は、こちらでは改めなければならないようだ。
近づくにつれ人の人数は数を減らし、代わりに窓の外は緑に覆われていった。
降り立った先は、平和。
空の青と木々の緑という自然が本来あるべき色が溢れていた。
道の両脇は田んぼ。ところどころにタンポポ。
視界に入る家も数える程度。
リアカーを引きながら道を歩いているおばあさんから挨拶をされ、驚き混じりに挨拶を返す。
その横をおじいさんがコブシの利いた曲を熱唱しながら、牛を思わせる速度でトラクターを走らせてゆく。
時間すらゆっくりと流れていた。
自分が止まっていると、世界が止まってしまったような錯覚に陥ってしまう。
どこからも銃声は聞こえない。
どこからも怒号は聞こえない。
どこからも火薬の臭いはしない。
どこからも死臭はしない。
聞こえるのは風の音。
漂うのは草木の匂い。
以前に居たところでは望んでも決して見ることが出来なかった様子。
世界が欲しても、掴むことが出来ない国の方が多い光景。
これが平和なんだ。そう実感させられてしまった。
お父さんの恩師から引き継いだ診療所に身を移して数日。
色々とわかったことがある。
一つ目。
前の土地の診療所とは違い、恐ろしいほど時間がのんびりと流れていること。
患者さんは年配の方ばかりで、薬ついでにおしゃべりをしていく。正確にはおしゃべりついでに薬をもらって行くと言った方が正しそうだ。
平和が肌身に染みるが、今までの生活に馴染んでしまっている自分はどうしても時間を持て余してしまう。
二つ目。
この村にはお年寄りしかいない。若くても40代後半。
若い世代はみんな都市部へと行ってしまったということだ。
なので、持て余した時間は家事や年配の方との世間話に費やしていた。
三つ目。
「いやぁ、まいったよ」
これは困ったといった顔をして頭を掻くお父さん。
「この村には学校がないそうだ」
子どもがいないんだから当たり前だと思ったが、お父さんとしては予想外だったらしい。
「あやは勉強がしたいかい?」
「勉強かぁ…うーん、生憎だけど間に合ってる」
「なるほどなぁ」
率直な感想だった。
生きるために必要な勉強は済んでいる。
語学は日本語、英語、ドイツ語、その他の地域言語。生きるのに必要な分を身につける必要があった。
内戦国にボランティアで来ていた様々の国の医者から学んだ医療知識技術。わざわざ免許を取る必要があるらしいが、実質的な医療行為は出来る。
それに向こうでは各国の人からもらった学術書しか読み物がなかったこともあり、物理学や生物学、薬学の知識も豊富となってしまった。
テレビで目にする日本の教育番組は、正直あくびが出るような内容でしかなかった。
「あやはお父さんより頭がいいからね。なら、学校はやめておくかい?」
「……」
一瞬、言葉が止まってしまった。
学校は勉強を学ぶ場所。
そう定義するなら行く必要はない。
けど、学校という組織には自分と同い年の人が集まるそうだ。
これまでをどんなに振り返っても同年代と接したことがない。
つまり今まで友達というものがいたことがないのだ。
学校そのものの存在には興味はない。
ただ、自分と同い年が集まった空間だということに強く心惹かれていた。
「……」
お父さんが察してしまったのか微笑みを浮かべた。
「少し遠くになってしまうけど、全寮制の学校があるそうだよ」
「いいわよ、学校なんて別に」
遠くの学校に行くとなると何かと入用になりそうだ。
お父さんに負担を掛けたくないこともあり、そんな言葉を口にしていた。
「あやが日本に馴染むためにも行っておいたほうがいいかと思ったんだよ。どうだろう?」
「……」
優しい笑みが向けられている。
「……」
「…お父さんがそういうなら…」
口では仕方なくを装ってはいたが、内心は舞うほどに躍っていた。
今までずっと歳の離れた人とばかり話をしていて、同年代の友達もいなければ遊んだことすらない。
友達を作るなんて叶わない夢だと思っていた。
それにようやく手が届くんだ!
「で、いつから?」
高鳴る気分を抑え冷静を装って声を出すが、トーンはいつもよりかなり上だ。
「いやぁ…」
…いつもの調子のお父さんに嫌な予感を覚えた。
「あはは……まずはお金を貯めないといけないからね。来年、になるかな?」
「そ、来年ね……来年か」
多少落胆もしたが、長年待ち続けていたものがあと1年で叶うかと思うと喜びの方が遥かに大きかった。
「――よし、追加50円と」
ブタの貯金箱の背に50円玉を落とすと、チャリンと小気味良い音が鳴る。
お父さんの話が出てからお金を貯め始めたのだ。
1年後に友達が出来たとして、その人と遊ぶときにはきっと何かとお金が掛かると踏んだからだ。
いわゆる先行投資とでも言えるだろう。
近所の魚屋や八百屋で食材を買った後の端数のお金や、患者のおじいさんおばあさんがくれたお駄賃だ。
日本のハイスクールの娯楽には果たしていくらあれば良いのか検討もつかないが、あるに越したことはない。
1年後に来るであろうその日を夢見ながら、少しずつ懐(ふところ)を温めていた。
5月に入って、あやには小さなお友達ができていた。
名前は『りっちゃん』、両脇で結った髪が似合う可愛らしい4歳の女の子だ。
近所のおばあさんが預かっているお孫さんだった。
なんでも都市部に住んでいる娘夫婦の家庭不和が原因らしく、なんらかの解決をみるまではおばあさんが孫の面倒をみることにしたそうだ。
歳の近い子どもがいないこの村で、あやとりっちゃんが姉妹のような関係になるのは当然のことと言えた。
「あやおねぇちゃん、あそぼ~っ」
いつも元気いっぱいに診療所に飛び込んでくるりっちゃん。
「ごめんね、今日はやることがあるのよ」
「やんやんやんやんやん~っ、あやおねえちゃんと、あそびたいのーっ」
ほっぺたを膨らませてオシリをプリプリと左右に振る様子がなんとも愛くるしい。
「もう…しょうがないわね」
「うわ~い、やたーっ」
両手を広げて飛び上がったかと思ったら、反動でスカートも浮かび上がった。
「ひゃ~っ!? み、みたー?」
「大丈夫、見えなかったわよ」
「よかったぁー、わーいっ」
嬉しさを全身を使って表しているりっちゃんに頬も緩んでしまう。
「今日は何して遊ぶ?」
「んとー、んとー、んとー……かくれんぼー?」
「かくれんぼね。それなら外に行こっか」
二人で手をつないで診療所の外に行く。
「りっちゃんがかくれるのー」
「ダーメ。じゃんけんで決めるの」
「けちんぼさんだ~~~っ」
「ケチで結構」
そんなのんびりとした日々が過ぎていった。
1週間ほど経ったときのことだ。
遊びに来たりっちゃんの胸に1冊の本が抱かれていた。
「それはどうしたの?」
「えへへ~」
「おうちから持ってきたえほんにね、これがまじってたのー」
「おばあちゃんがね、りっちゃんにはよめないから、あやおねぇちゃんにあげなさいってー」
「はい、あやおねぇちゃん」
ポンと手渡された本を見ると、マンガ本だった。
「ねーねー、りっちゃんえらい?」
「ええ、えらいわよ」
そのマンガ本を読もうと長イスに腰を掛けると、りっちゃんがヒザの上に乗って来た。
「一緒に読む?」
「うん、読むー、のー?」
「読んであげるわよ。えー、コホン――」
一目見て、その内容に吸い込まれていった。
マンガ本の内容はというと学園モノだった。
もちろんマンガだけあって、女スパイや財宝なんていうテイストが大部分を占めている。
惹かれたのはそのような非日常ではなく、途中に挟まれた日常の光景だ。
ヒロインはたくさんの友達に囲まれて楽しい日常を送っている。
海に行ったり、お祭りに行ったり……。
大勢で時には騒ぎ、時には笑い、時には事件に巻き込まれたり。
そんな大騒ぎを繰り返す日常シーンが目に焼き付いてしまった。
小さな頃にお父さんから聞いてからずっとずっと憧れていた光景が、そこに描かれていたのだ。
「このえほんの女の子、おねえちゃんとおなまえ、そっくりさんー?」
「へぇ…こんなこともあるのねぇ」
このマンガを気に入った理由は、ヒロインの名前が自分とそっくりで自分と重ね合わせてしまったこともあるのかもしれない。
「おともだちいっぱいいっぱーい、だねっ」
りっちゃんがマンガから顔を離し、あたしの顔を見つめた。
「りっちゃんも、おともだちいっぱいできる?」
「ええ、できるわよ」
「んとー…んとー…んとー…いっぱいって10にん?」
「10人どころか、りっちゃんなら100人くらいできちゃうわよ」
「ひゃくっ? えーと、えっと、いーち、にー、さん、しー…んと、んと、んと」
一生懸命両手の指を曲げたり伸ばしたりしていたが、諦めたようだ。
「いっぱーいっ!」
大きく大きく手を広げる様子はとっても嬉しそうだ。
「そうね、いっぱーーーいよ」
こちらも負けじと大きく手を広げる。
「うわぁ~、いっぱーいっ!」
「いっぱーーーーいっ」
「いっぱーいっ」
「いっぱーーーーーーーいっ」
「いっぱーーいーっ」
二人で一緒に大きく大きく両手を広げていっぱいの表現だ。
「あやおねぇちゃんもマンガの女の子みたいに、いっぱいおともだちができるー?」
「あたし? ふっふっふ…聞きたい?」
「うんっ、ききたいーっ」
「実はね…」
コソコソ話をしようと、りっちゃんの耳元に口を近づける。
「ゃんっ、くちゅぐったいっ」
「こーら、逃げない」
「えへへ、ごめんなさーい」
くすぐったそうにモジモジしながら耳を寄せてきた。
「実はね…来年にはお友達がいっぱいできるの」
「えーっ、えーっえーっ! あやおねぇちゃんっすっごーいっ、」
「すっごいでしょ」
自慢げに胸を反らせていると、診療室からドア越しにお父さんの声が聞こえてきた。
『――いやぁ、いいですよお金なんて。この丹精込めて作った大根を頂けただけでもう十分です、あはは』
「来年……だと思うんだけど。はぁ」
「どうしたの、あやおねぇちゃん?」
「ううん、もしかしたら再来年になるかも」
「え、え? なんでなんでー?」
「そんなことより、りっちゃんにあたしの宝物を特別に見せてあげるわ」
「たからものーっ! なになにー?」
「ブタさん貯金箱よ」
「うわぁぁぁ~~~、りっちゃんブタさん見たいのーっ」
「じゃあ、あたしの部屋に行きましょ」
「いきましょ~っ」
楽しい日々だったが、それも束の間だった。
近所のおばあさんの家の前にいた。
りっちゃんのお父さんとお母さんが仲直りをして、りっちゃんのことを迎えに来たのだ。
「あやおねぇちゃん、いままでね、とってもね、たのしかったですっ」
ペコリと元気よくりっちゃんが頭を下げた。
その途端、帽子がポロリと落ちる。
「わっ」
りっちゃんは後ろ手に何かを隠しているようで、手が塞がっていて取れないようだ。
その落っこちた帽子を拾って、りっちゃんの頭に乗せてあげた。
「えへへ~、りっちゃんやっちゃった」
「気をつけないとダメよ」
「はーい」
ひまわりのような笑顔を浮かべていた。
「りっちゃんね、らいねんからようちえんにいくのっ」
「そこでねっ、りっちゃんもあやおねぇちゃんにまけないくらい、おともだちをいーっぱいつくるのーっ」
「そうね、りっちゃんならいーーーっぱいお友達ができるわ」
嬉しそうにジャンプしているりっちゃんの頭を優しく撫でる。
「えへへ~」
「でねっ、でねっ、あやおねぇちゃんにもプレゼントがあるの」
実はそのプレゼントはりっちゃんの後ろからチラチラと見えているが、見ていないフリ。
「プレゼント? あたしに? なになに?」
「これーっ!」
差し出されたプレゼントは一枚の画用紙だった。
そこにはクレヨンで絵が描かれていた。
肌色のお団子と、そのてっぺんから黄色のレーザーが何本も発射されている絵。
「これ、あたしの顔ね。りっちゃんは絵がとっても上手ね」
「えへへ~」
にぱーっと屈託のない笑顔が向けられる。
「周りにいっぱい描いてある絵はなにを描いたの?」
周りには所狭しと肌色のお団子が並んでいた。
「それはね、あやおねぇちゃんのおともだちーっ! いっぱいいーーーっぱいかいたのーっ」
りっちゃんが両手を大きく広げながらいっぱいを表現する。
「あとねっ、おばあちゃんからおそわって、字もかいたんだよーっ」
画用紙の下の方には『あやおねぇちゃん おともだちいっぱい』と、ところどころ鏡字で書かれていた。
「すごいじゃないっ、りっちゃん、もう字が書けるようになったのね」
「りっちゃんすごい?」
「すごいすごいっ」
「そんなにほめられると、りっちゃんはずかしいー」
照れて両手でほっぺを押さえる仕草がとても可愛らしかった。
別れを惜しみつつ、りっちゃんが車へと乗り込んだ。
「あやおねぇちゃん、バイバイ~っ」
「バイバイ、りっちゃんーっ」
車が走り出す。りっちゃんは窓から体を乗り出して手を振り返してくれていた。
次第に車が小さくなってゆき、窓から体を乗り出して千切れんばかりに手を振っていたりっちゃんの姿も見えなくなってしまった。
「……」
小さな友達が書いてくれた絵を見ると、その中の自分はいっぱいの友達に囲まれて笑っていた。
絵を見つめているだけで、いつの間にか自分からも笑顔が零れていた。
6月。
村にバイパス(道路)が通ることとなり、工事が開始された。
交通も便利になり、過疎の歯止めにもなるだろうと村も大きく湧き立っていた。
そのような折、あやたちは一週間という短い期間だけ、作業従事者の健康管理のような仕事を引き受けることととなった。
その期間は村の診療所を空け、工事現場のプレハブでの生活だ。
お父さんが言うには、この仕事を終えればまとまった額をもらえるらしい。
笑いながら「もしかしたら9月にはあやは学校の寮で一人暮らししてしまうかもしれないね。複雑な思いだよ」なんて頭を掻いていた。
複雑な顔をしているお父さんには悪かったが、ガッツポーズを決めてしまっていた。
プレハブに着いてからは定期的な作業員の問診以外はやることもなかったので、りっちゃんからもらったマンガ本を何度も繰り返し読んでいた。
「へぇ…あやがそんなに真剣にマンガ本を読むとは思わなかったよ」
お父さんが棚に薬ビンをしまいながら、意外そうにしていた。
「そう?」
ヒロインが海で友達に囲まれて遊んでいるシーンを見ながら返事を返す。
このマンガ本には小さな頃から思い描いていた夢が描かれている。
そして……。
それはもう少しで手の届く夢。
そう考えただけで居ても立ってもいられなかった。
ヒロインと自分を重ね合わせて何度も何度も繰り返して読んでは、楽しい日々をイメージをしていた。
「あはは、りっちゃんの絵まで持ってきたんだね」
棚の横に畳んで置いておいた絵を笑顔で見つめていた。
「だって…嬉しいじゃない、そういうのって」
恥かしくなってマンガに顔を埋める。
なにせ初めて友達になった子――ちょっと小さいけど――からもらった絵だ。
大事に持っていたかったのだ。
「よ~し、お父さんも張り切って頑張らないと」
これからのことを楽しみにしているのが伝わったのか、お父さんが気合一発腕まくりをした。
「……」
ぴくっと一時停止。
「……いやぁ」
「張り切ったはいいけど……何事もなければお父さんの出番はほとんどないんだよね」
能天気なお父さんは、いつものようにずり落ちたメガネで笑顔を浮かべボリボリと頭を掻いていた。
――夜半から窓を大粒の水滴が叩きつけていた。
工事に遅れが出ているらしく、そんな雨でも続けなければならないらしかった。
「怪我人がでなければいいんだけどねえ」
お父さんが心配そうな様子で雨粒が叩きつけられる窓を覗いていた。
「日程なんて延ばして、こういうときぐらい休めばいいのに」
あたしは簡易テーブルでお茶をすすりながら、大雨のライブ中継のニュースを聞き流している。
「そうもいかないみたいだよ」
お父さんの声からも「やれやれ」という思いが聞いて取れた。
「お父さんもこっちに座ってお茶でも飲めば?」
「…そうだね、一杯いただこうか」
「じゃ、今――」
飲みかけのお茶をテーブルに置いて、立ち上がろうとしたときだ。
――カタカタカタカタ……
テーブルのお茶が振動した。
激しい雨音で聞こえづらかったが、地鳴りのような音、悲鳴が混じっている。
「「!?」」
今までの長年の経験から、事故が起こったんだと予感した。
「念のためにストレッチャーの準備を」
お父さんの真剣な声が事故の予感を確かなものとさせる。
「――わかった」
…予感は当たってしまった。
程なくして一輪車に乗せられた怪我人が転がり込んできた。工事現場の監督だ。
ボイリングで三人が吹き飛んだ。
底面の土がすべり破壊を起こしそうになっている。
土留めももう決壊寸前だ。
二人が倒れたブルに挟まれた。
ひっきりなしにプレハブに現場報告と怒声が響き渡る。
大雨によって地盤が緩んだところへ無理な工事をしたせいで地盤が崩壊、数十メートルに渡り現場が崩落したのだ。
それだけに留まらず、未だに地鳴りと土砂崩れが発生している。
「そっちの止血、洗浄、縫合! 任せた!!」
「うん!!」
次から次へと運ばれてくる痛々しい怪我人。
――ゴゴゴゴ…………――
続けざまに聞こえる地鳴り。
だが怪我人の対応に必死で余所見もする暇すらない。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……――
今度は近い。
一瞬手が止まったところに怪我人の痛さを堪えきれない悲鳴にも近い叫び声。続けてお父さんの声が飛ぶ。
「あや、アスピリンだ!」
「もうないわよ!?」
「隣の部屋の棚! 上から3段目!」
「うん!」
目の前にいる怪我人の処置を手際よく済ませ、急いで隣の部屋に飛び込む。
あたしとお父さんが休憩に使っていた部屋だった。
「あった!」
棚から薬ビンを取ったときだ。
立っていられないほどの大きな揺れがプレハブを襲った。
洗面器や棚の薬ビンが乾いた音を立てて落ちた。
「きゃっ!?」
思わず尻餅をつく。
「いたた…」
そんな声を上げられたのも一瞬だ。
「――ッ!?」
建物に大型トラックが突っ込んだような音と共に、目の前の床に一直線に筋が走る。
床の亀裂が大きな裂け目となり、部屋の半分が地鳴りに合わせて傾(かし)いでゆく。
「え…?」
グラリ。
世界が傾いた。
なにが……?
考える暇も与えられず、あたしの背が壁に押し付けられ、正面からは簡易ベッドだったはずのものが叩きつけられた。
上からは屋根であったであろう木材が振り注ぐ。
そして、床が断末魔を上げ崩壊した。
痛みを感じる間もなく、浮遊感。
あれ…?
あ、落ちてるんだ…。
「あやッ!? あやァァァーーー――――…………」
遠くからお父さんの声が聞こえた。
体を叩く水滴で意識が戻った。
体を動かそうとしたが全く動かない。
それどころか痛みも感覚すらもない。
ああ、背骨がやられたんだ……。
それが何を意味するのかわかっていた。
ゆっくりと目を開ける。
もう、左眼は見えない。
開けた眼には、泥と瓦礫、そして泥と血に汚れ、いびつに曲がっている自分の腕が映っていた。
偶然だろう。
その歪んでしまっている手は、そんなになってしまっていても一枚の画用紙に添えられていた。
それはいつか小さな友達からもらった絵。
そこに描かれていたのは――すぐそこにあった夢。
……いまは遠い、ずっと遠い夢。
少しずつ自分から熱が逃げていくような感覚に襲われる。
寒い。
たった一人きりで雪の中に放り出されたようだ。
何もかもが凍ってゆく。
寒い…。
寒いよ……。
彼女の命――彼女の夢――すべては唐突に幕を下ろした。
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