前回<「理姫」リスト>次回
――次の日。
理姫の病室の手前まで行くと、看護師さんがちょうど病室を後にするところだった。
僕は一瞥(いちべつ)して病室へ向かおうとした。
「あ、キミ」
看護師さんに声をかけられた。
「はい?」
「今日は……このお部屋の患者さんとは面会できないの」
「え……?」
「ごめんね」
「本当は面会謝絶の札をつけるところなんだけど…患者さんが、それはみんなが余計に心配しちゃうからやめてほしいって」
「面会謝絶…?」
その言葉に息が止まりそうになる。
「えっと…」
看護師さんの言葉が、ほんの一瞬止まった。
「キミが思ってるような意味じゃなくて、患者さんが人と会いたくない時にも使うの」
「容態は安定してるから、心配しなくて大丈夫よ」
「患者さんからも、安心してと伝えてください、と伝言を頼まれてるの」
「そう、ですか…」
「では」
看護師さんは軽く頭を下げると歩き去って行った。
…………。
――予後は悪いだろう。
思い出したくもない言葉が胸を締めつける。
僕は、理姫の病室の前に立った。
――コン、コン。
『はい』
ノックをすると、理姫の声。
一拍おいて…不安を気取られないように努めて明るい声を出す。
「入って、いいかな?」
行けば会えそうな気がしていた。
けど。
『…ごめんね』
中から返ってきたのは…否定の言葉。
『今日は…ダメ、だよ』
困ったような声がドア越しに聞えてくる。
「……」
なんで、どうして、訳を訊かせて、そんな言葉が頭に並ぶ。
けど、どの言葉を選んでも……きっと理姫を困らせる。
僕が言葉を返せないでいると、理姫が言葉を紡いだ。
いつも通りの調子、で。
『体はもう大丈夫なんだよ、私』
「けど……」
『お兄ちゃんって心配性なんだね』
いつものような理姫の言葉。
「……放っておいて」
僕もいつもの調子で返す。
『ほら、私は大丈夫だから、安心して。ね?』
「…うん」
「……」
『……』
「明日は…会えそう?」
『………………うん』
「そっか、なら今日はもう帰るね」
『……お兄ちゃん』
「うん?」
『今日も来てくれて…ありがと』
「……うん」
「また明日、理姫」
『また明日、お兄ちゃん』
いつもどおりの言葉、だった。
――また次の日がやってきた。
今日、明日と休日だ。
きっと今日は……ずっと理姫と一緒にいてあげられる。
身支度を整えて、いつものように病院へ向かった。
春らしい、温かくて気持ちのいい日だ。
頬に当たる春風が心地よい。
理姫の病室に行く前にいつも通りトイレの鏡の前に立つ。
「…うん」
僕は今日も上手く笑えている。
昨日やおとといよりは、少し下手になった。
けど。
きっと理姫が今の僕の顔を見たら安心できる。
きっと理姫を元気にしてあげられる。
そんな笑顔をしていられている。
理姫の病室の前。
今日は誰にも止められることはなかった。
――コン、コン。
深呼吸をしてからノック。
…………。
返事はなかった。
「――入るよ」
ドアを開けた。
「……………………え?」
――ベッドは、空、だった。
そこに、見慣れた光景はなに一つなかった。
枕元で羽を広げていたツルが……いない。
枕元でのほほんと腰を下ろしていたドルジのぬいぐるみが……いない。
ベッドの上でいつも笑顔を咲かせていた理姫が…………いない。
整頓された無機質な病室が広がっていた。
「……え?」
もつれそうになる足を無理矢理動かし病室の前に出て、見上げる。
ネームプレートは
誰もその病室を使っていないことを表していた。
「……え?」
病室の前を他の患者さんがヒソヒソと話をしながら通り過ぎていくけど……僕の耳には届かない。
理姫は……どこだろう。
……突きつけられた現実を必死になって否定している。
今日は……いい天気だ……。
散歩好きな理姫のことだから……散歩に出てるんだ。
……突きつけられた現実を必死になって否定している。
目の前の全ての光景が色褪(いろあ)せていく。
自分が息をしているのかさえわからない。
「――――………………ッ!」
僕は、見えている病室から出て、見えもしない影を追うように病院の外へ飛び出した。
病院の周りに広がる、いつもの散歩道。
春の日差しが刺すように差し込んでいる光景。
そこを進めば……その先に理姫がいる気がした。
「どこ……行っちゃったのさッ」
僕はまだ、突きつけられた現実を必死になって否定している。
認めなければ……すべてが変わる気がしていた。
最初は、もつれる足でゆっくり。
距離が進むにつれて、早足になっていく。
「理姫ッ! ねぇ、理姫ッ!」
いるはずのない影を必死で探している。探し求めている。
早足だった足は、徐々に速度を上げて駆け足になってゆく。
「ハァッ…ハァッ……ハァッ………ハァッ……ハァッ――!」
いつしか駆け足だった足は全力疾走になっていた。
1周……。
2周…………。
3周………………。
何度呼びかけても、答えはない。
何度見回しても、見つからない。
いくら探し回っても見えることがない……いるはずのない影。
「ハァッ…ハァッ……ッグ……ハァッ…ハァッ…ハァッ、ハァッ――!」
体中が悲鳴を上げている。
足がもつれて思うように走れない。
それでも、僕は
「僕と……ハァッ、ハァッ…一緒に……ハァッ、ハァッ……帰ろうよっ!」
見えもしない影を探し続けている。
探せば見つかる気がしていた。
けど……。
けど…………。
けど本当は……。
本当は……わかってるんだ。
理姫が……どうしていないのか……。
理姫が…………どうなったか……。
僕は……。
わかっているんだ。
疲労しきった足を止める。
「ハァッ…ハァッ……ハァッ……ハァッ…………ハァッ………………――」
すぐ近くにある病院の窓に、疲れきった僕が映し出されていた。
酷い顔だ。
眉をしかめて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
それなのに。
もう必要もないのに。
それでも僕は笑顔を作ろうとしている。
だから、酷い顔だ。
「……そうだ」
一箇所だけ、行ってないところがあった。
病院の裏。
少し奥に入ったところ。
周りの木で見えづらかったけど…隙間から桜色が顔を覗かせている。
――そこには、小さな桜の木があった。
桜の花が咲いていた。
大きく広げた腕いっぱいに、大輪の桜の花が咲き誇っていた。
春風に揺られ、空いっぱいに広がった桜たちが踊っていた。
もう――満開だ。
一人佇む僕は言葉もなく、その桜の木を見上げた。
この前来たときは、つぼみだったのに。
この前来たときは、温もりを感じていたのに。
この前来たときは、確かに僕の横にいたのに。
この前来たときは……妹がいたのに。
今は、いない。
この光景を誰よりも楽しみに待っていた妹だけが、いない。
「そんなのって、ないよ……」
呟く。
「酷すぎるよ……」
「ようやく会えたのに……」
「ようやく夢が叶いはじめたって言ってたのに……」
「これからも、一緒に叶えていこうって言ったのに……」
「そんなのって、ないよ……ないよ……」
涙がこぼれそうになる。
「まだ理姫に言葉にして伝えてないことがあるのに……っ」
「理姫があんなにお兄ちゃん、って僕のこと呼んでくれたのに……っ」
涙を堪えるけど、ひとすじ、ひとすじと頬を伝う。
「まだ兄妹なんだって、伝えてあげられてないよ……っ」
理姫との思い出があまりにも短すぎて、あまりにも詰まりすぎて、かえって真っ白になってゆく。
「僕は……お兄ちゃんらしいこと、してあげられてたのかな……?」
もちろん返事なんて返ってこない。
「笑顔でいれば……理姫がきっと元気になるんだって……がんばったけど……っ」
「もうさ……っ」
立っていられずに腰が落ちた。
途端にボロボロと涙がこぼれはじめる。
「……泣いたって……いいよね……?」
「うあぁぁ……っ」
「うあぁぁ……っ……ぁう……っぁうあああああぁぁぁ……――」
満開の桜の下、春風に桜の花びらが舞う中
――僕は、声を上げて泣いた。
――誰にも会いたくなかった。
今は誰にも会いたくない。
こんな僕を……誰にも見せたくない。
今の僕を見たらみんなは励ましてくれるだろうけど、今はその優しさが……痛い。
僕は泣き疲れた体を引きずり、休日で誰もいない学校に向かった。
やがて閑散とした教室に辿り着く。
誰もいない机を通り過ぎ、窓際の自分の席に腰を下ろした。
ここからは理姫の机が見えた。
突然できた妹。
ここから理姫が勉強をしている姿を、戸惑いの視線で見ていたんだ。
机に手を入れる。
……理姫が入院してから、ずっと道具は置きっぱなしだ。
「あ…」
その中の一冊のノートを取り出す。
ペラペラとページをめくると、それはあった。
片隅に「おはよう」という落書き。
「ほんの少し前なのに……」
懐かしい。
まぶたを閉じると、理姫の顔が浮かぶ。遠い声が聞える。
なにもかもが、懐かしいよ。
懐かしい……。
意識が……暗転していく。
――夢を見た。
僕と理姫の辿った軌跡をなぞる夢。
僕たち兄妹の夢。
出会い。手探りでつたない会話をしていた。
理姫の転入。教室の反応が恥かしかった。一緒にいるのが恥かしくて理姫と距離を置いていた。
みんなと野球。僕は少し離れて、みんなと会話をしている理姫を見ていた。
買い物。僕たち二人は肩を並べて歩いても、足並みが合っていなかった。
病室。僕たち二人は気兼ねせずに話せるようになっていた。
散歩。僕たち二人は肩を並べて、揃った足並みで歩いていた。
桜。僕たち二人は一緒に見上げていた。
いつの間にか
僕たちは
兄妹になっていた。
「……ん……」
しだいに意識が現実味を帯びてくる。
背中には何かが掛けられている感触。
そっか…。
僕、また寝ちゃったんだ……。
まどろんだ目をゆっくりと開く。
辺りは夕日に照らされ、赤く色づいていた。
顔の下にはさっきまで見ていたノート。
ノートの片隅に目を落とす。
さっきまで見ていた「おはよう」の落書き。
その下には「ただいま」という落書き。
体を起こすと、肩にかけられていたカーディガンがハラリと落ちた。
目線の先には夕焼け色に映し出された一人の女の子。
「――ただいま、お兄ちゃん」
夕日に照らされて、理姫がそこに、立っていた。
ぼんやりとしていた意識が、はっきりとしていく。
「理……姫……?」
頭の中が真っ白になる。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
夢の中と変わらない、笑顔。
「理姫……なの?」
「そうだよ」
僕はイスからゆっくりと立ち上がった。
「本当に……理姫……?」
「うん」
嬉しそうに頷く理姫。
「ただいま」
理姫の笑顔が、桜の花のように咲いた。
「理姫……」
「理姫……っ!」
思わず僕は理姫に抱きついた。
「ど、どうしたの?」
温かさが伝わってくる。
胸の鼓動が伝わってくる。
「……生きてる……」
「……理姫が……生きてる……」
「お兄ちゃん、大げさだよ」
少し呼吸を落ち着けてから離れた。
幽霊かと思った…。
幻覚かと思った…。
理姫だ。
確かに理姫がここにいる。
「けど……」
理姫は……ガンで……。
手術の予後は悪いって……。
「今日退院したのに、お兄ちゃんがどこにもいなくて探し回ったんだよ」
「……退院?」
「ふふっ、まさか学校にいるとは思わなかった」
口元に手を当ててクスクスと笑っている。
「……」
「理姫」
「なに、お兄ちゃん?」
「体は……大丈夫なの?」
「もう大丈夫だよ」
目の前の理姫は……僕から見ても健康そのものだ。
「けど……理姫がガンだって……」
「ガン? 私?」
首を傾げている。
「うん、病院の先生が…」
「……」
「……」
「盲腸だったよ、私」
自分のお腹をさわっている。
「転移したガンだって…」
「……」
「……」
「ううん、盲腸」
首をかしげながら理姫が自分のお腹をさする。
「けど理姫、何年か前からお腹が痛くなることがあったって……」
「慢性盲腸炎っていう病気だったんだって」
「……」
「……」
「病院の先生が、3階の個室の髪を結ってて男の子がお見舞いに来てる患者さんが……転移した胃ガンで予後は悪いって……」
「あ…」
胸の前で手をポン、と合わせた。
「それ、たぶん、個室の魚越さん」
「私が手術した日と一緒だったから、魚越さんの手術」
「奇跡的な大成功って病院中大騒ぎだったんだよ」
「お孫さんがいつもお見舞いに来てたみたい」
「……」
「……」
「………………え?」
「それにお兄ちゃん」
「私、病院で髪、結ってない」
…そうだ。
言われて思い出した。
理姫は病院では散歩に行くとき以外……髪を下ろしていた。
「じゃあ……ガンっていうのは……」
「たぶん、お兄ちゃんの聞き間違い、かな」
…………。
……。
なんだ……。
そうだったんだ……。
「はぁぁ……………――――――」
大きな溜息と共に、今まで巣食っていた体の中の黒い塊が抜けていく。
ずっとずっとずっと長い間こめていた全身の力が、急激に抜けていった。
ストン。
僕は崩れるようにイスに尻餅をついて、そのまま顔を隠すように机に塞ぎこんだ。
「全部……僕の勘違いだったんだ……」
「お兄ちゃんは早とちりなんだね」
微笑む理姫の声。
「………………放っておいて」
顔を伏せたまま、いつもの返事。
「お兄ちゃん」
「……うん?」
「心配してくれてたんだね、私のこと」
「…………もう、クタクタになるくらい、本当に……本当に……心配したよ…………」
「……」
理姫が少し動く雰囲気。
顔を伏せている僕には見えないけど、きっと肩をすぼめてくすぐったそうな笑顔を浮かべている。
「お兄ちゃん、私との最初の約束を守ってくれた」
「具合が悪くなったらお兄ちゃんに介抱してほしい、っていう約束」
「私のことを介抱してくれて……本当にありがとう」
「……うん」
机に伏せていた顔をゆっくりとあげる。
「あ……っ」
理姫が慌ててポケットからハンカチを取り出した。
「涙、でてるよ」
「……うん」
「これで…拭いて」
「……うん」
「ほら…」
「……うん」
僕は病院の桜の下で泣いた。
泣いて泣いて泣いて。
もう涙は枯れ果てたかと思った…。
けど、さっき使い果たしたのは悲しいほうの涙だったみたいだ。
今出ている涙は
嬉しい涙。
「理姫が……元気になって……本当によかった……」
今の僕の顔はたぶん酷い顔だ。
涙が次から次に溢れている。
それなのに。
僕は満開の笑顔だ。
だから、酷い顔だ。
「お兄…ちゃん……」
理姫までもらい泣きしている。
誰もいない夕焼けの教室で、兄妹が揃って泣いている。
傍から見たら滑稽な光景だ。
けど、僕たち兄妹にとっては……温かい光景だ。
――夕日が傾き始めた。
「理姫」
「寮まではちょっとしかないけどさ」
「一緒に帰ろうよ」
妹に手を差し出す。
「……手、つないでさ」
「……うん」
「一緒に帰ろ…お兄ちゃん」
妹が僕の手をしっかりと握った。
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